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福岡地方裁判所 平成6年(ワ)1424号 判決 1997年2月12日

本訴原告・反訴被告(以下単に「原告」という。)

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

荒木邦一

田邊宜克

本訴被告・反訴原告(以下単に「被告」という。)

中央スポーツクラブこと高田敬司

右訴訟代理人弁護士

長網良明

主文

一  被告は、原告に対し、金一二万六二一一円及びこれに対する平成六年一月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告は、被告に対し、金五〇万円及びこれに対する平成六年四月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告のその余の本訴請求を棄却する。

四  被告のその余の反訴請求を棄却する。

五  訴訟費用は、本訴反訴を通じ、これを五分し、その二を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

六  この判決は、第一、二項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

一  本訴

被告は、原告に対し、金九九万六四〇五円及びうち金一九万九二八一円に対する平成五年一二月四日から、うち金一九万九二八一円に対する平成六年一月六日から、うち金一九万九二八一円に対する平成六年二月五日から、うち金一九万九二八一円に対する平成六年三月五日から、うち金一九万九二八一円に対する平成六年四月六日から各支払済みまでそれぞれ年五分の割合による金員を支払え。

二  反訴

原告は、被告に対し、金一〇四三万円及びこれに対する平成六年四月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、被告の従業員であった原告が、被告からなされた平成五年一二月九日付懲戒解雇が無効であるとして、被告に対し、同年一一月分から依願退職したと主張する平成六年三月分までの未払賃金の支払を請求し(本訴)、被告が原告に対し、原告が被告の資金を無断で費消した等と主張して不法行為に基づく損害賠償を請求する(反訴)事案である。

一  争いのない事実等

1  被告は、中央スポーツクラブ、中央幼児体育教室及び中央ピノキオ教室の各名称を用い、主として子供向けの体育教室、サッカー教室等(以下「本件クラブ」という。)を個人で開設し、経営している者であり、原告は、被告の義弟であって、昭和六三年ころから期間の定めなく正規従業員として被告に雇用され、以来、本件クラブの業務に従事していた者である(争いのない事実)。

2  被告は、原告に対し、平成五年一二月六日付書面により、同月九日付をもって懲戒解雇する旨の意思表示をなし(以下「本件懲戒解雇」という。)、右書面は同月八日、原告に到達した(争いのない事実)。

3  被告の原告への賃金の支払は、前月二一日から当月二〇日までの分を翌月五日(五日が金融機関の休日であるときはその直前の営業日)に支払うものであったところ、原告の賃金は一か月あたり一九万九二八一円(但し、税金等諸控除後の金額)である(争いのない事実、<証拠略>)。

4  なお、本件懲戒解雇に関する本件クラブの就業規則は、別紙記載のとおりである(<証拠略>)。

二  争点

1  本件懲戒解雇の有効性

(一) 懲戒解雇事由の存否

(二) 懲戒権の濫用の有無

2  原告の被告に対する不法行為の成否

三  争点に対する当事者の主張

1  本件懲戒解雇の有効性

(一) 懲戒解雇事由の存否

(1) 被告

次に述べるとおり、原告には懲戒解雇事由が存する。

<1> 原告は、平成五年九月二九日、本件クラブの出納等に用いている「中央スポーツクラブ高田邦香(被告の妻、以下「邦香」という。)」名義の郵便貯金口座(以下「郵便貯金口座」という。)の届出印を被告に無断で変更し、同日、右変更後の届出印を使用して右口座から六五万円を引き出して費消した。右行為は、就業規則四五条(3)に該当する。

<2> 被告の業務のうち、中央ピノキオ教室(以下「ピノキオ教室」という。)に関する業務は、邦香の母橋爪サヤ子(以下「サヤ子」という。)にほぼ一任し、これに関する経理については福岡銀行香椎花園出張所に「中央ピノキオ教室高田邦香」名義で普通預金口座(以下「ピノキオ教室口座」という。)を設けていたが、原告は平成五年一〇月一日にサヤ子から言葉巧みにピノキオ教室口座の預金通帳を預かった後、被告の承諾を得ることなく無断で届出印の変更を行い、同日以降、右変更後の届出印を使用して右口座から七回合計六二万二四二八円を各引き出して費消した。右行為は、就業規則四五条(3)に該当する。

<3> 原告は平成五年一二月七日ころ、被告が本件クラブの事務所において保管・管理をしていた業務上の金銭の出納、その他経理事務に関する重要書類及び会員名簿や会員に対する連絡方法などを記載した種類(以下「会員連絡簿」という。)を持ち出した。このため、被告は、本件クラブの金銭の出納や経理事務及び会員に対する連絡その他の業務に重大な支障をきたした。

のみならず、原告は平成六年三月末日ころ被告に対し退職通知をした後、新たにスポーツクラブを始め、その際右会員名簿や会員連絡簿を利用して本件クラブの会員の引き抜きを図り、被告の業務に多大な損害を与えた。

原告のこれらの行為は、就業規則四五条(3)、(4)に該当する。

<4> 原告は被告に無断で第三者との間で本件クラブ名義の契約を締結し、その際、被告がサヤ子に預けていた「中央能力開発研究所印」を押印して「中央幼児体育教室印」の印影のように見せかけ、契約書を偽造した。原告の右行為は、就業規則四五条(3)、(4)に該当する。

<5> 原告は、被告に無断で、平成五年六月ころから一二月ころまでの間に、被告の名義と計算において、ほしいままに被告の資金を支出した。この行為は、就業規則四五条(3)、(7)、(10)に該当する。

<6> 原告は、被告に無断で、平成五年六月ころから一二月ころまでの間に、アルバイト従業員を正規従業員に昇格させ、アルバイト従業員を新規に採用し、また、従業員の賃金の額の改定を行った。この行為は、本件クラブの就業規則四五条(7)、(10)に該当する。

(2) 原告

次に述べるとおり、原告には懲戒解雇に該当する事由はない。

<1> 平成五年三月ころから、被告に強引な経営態度が見られたため、従業員らとの間で感情的な対立が深刻になり、同年六月、原告を除くすべての従業員(六名)が、被告に対し、辞職願を提出する事態になった。そこで、被告、原告及び橋爪家の者が善後策を協議した結果、被告に本件クラブの経営者としての立場を残しつつ、同人は、自ら講師として担当していた体育教室等の指導に赴く以外は、本件クラブの日常業務に直接関与することはなく、原告が本件クラブの責任者としてその日常業務に関する一切の事項、具体的には従業員の統括、日常業務の割り振り、生徒の管理、練習場所の確保、業者への教材発注、従業員への賃金の支払等を含めた金銭出納業務などを包括的に担当する、ピノキオ教室についてはサヤ子に会計等も含めた業務一切を完全に一任するという旨の協議(以下「六月の協議」という。)が整った。

<2> また、六月の協議においては、本件クラブの日常業務に必要な運転資金の管理のため、生徒の父兄からの授業料の振込入金等に使用していた「中央スポーツクラブ高田敬司」名義の福岡銀行香椎支店普通預金口座(以下「銀行口座」という。)及び邦香名義の郵便貯金口座の管理についても原告に任されることになった。

被告は六月の協議に基づいて、銀行口座については、邦香を介し、即座に、届出印を別途新たに作成した「高田」名の印鑑に変更する手続をとった上で、邦香の父の橋爪鉄男(以下「鉄男」という。)を介して預金通帳を原告に引き渡したものの、郵便貯金口座については言を左右にして届出印の変更手続をとらず、引渡を渋った。そうするうちに、銀行口座に入金される父兄の授業料だけでは本件クラブの運転資金を賄うことができなくなり、他の口座への入金分も本件クラブの運転資金にしないと運営できなくなったため、原告は、やむを得ず、被告と邦香に通知した上で、平成五年九月に銀行口座の届出印を用いて、郵便貯金口座の届出印の変更手続をした。

また、サヤ子と協議の上、同年九月ないし一〇月ころ、ピノキオ教室口座の届出印も変更し、ピノキオ教室口座に残存する預金を暫定的に本件クラブの運転資金としても用いることになった。

右のように、当初から、郵便貯金口座についても届出印を変更した上で原告に管理を一任するとの合意があったのであるから、原告のなした前記変更手続は被告の承諾に基づくものであるし、ピノキオ教室口座の届出印の変更はサヤ子と協議して行ったものであり、偽造に該当しないから、懲戒解雇事由に該当するものではない。

<3> 被告は、原告が平成五年九月二九日に郵便貯金口座から引き出した六五万円と、同年一〇月一日以降にピノキオ教室口座から引き出した六二万二四二八円を費消したと主張するが、右各金員は、同月五日に支払日が到来する同年九月分の従業員の賃金や本件クラブの運転資金の支払に充てられているのであって、原告の行為は適法であり、懲戒解雇事由に該当するものではない。

<4> 本件クラブの書類の管理も、六月の協議によって、原告が任された日常業務の一つであり、六月の協議は、被告と従業員との間の対立が解消し、本件クラブの運営が破綻する危機を脱するまでの臨時的な非常措置であって、依然として右対立が解消していない時点においては、六月の協議の取決めが有効に存続しているはずであるから、原告が本件クラブの事務所から書類を持ち出したことは原告の権限に属することである。

それに、原告が新たなスポーツクラブを設立するに当たり、右書類を利用したのは、原告が平成六年三月に被告を退職した後の事情である。

本件クラブの書類の管理を継続したことは、懲戒解雇事由に該当するものではない。

<5> 原告が行った第三者との間の本件クラブ名義の契約は、業者からの教材の購入等クラブの日常業務の範囲内のものであり、原告が本件クラブの日常業務について被告から一任されていた以上、右のような契約の締結も委ねられていたものであるし、押印についても、日常業務の範囲内の契約の締結に使用したのであるから、権限の範囲内の行為であり、これらの行為は懲戒解雇事由に該当するものではない。

(二) 懲戒権の濫用

原告

前述のように、原告の各行為は、六月の協議に基づくものであるから、被告主張の懲戒解雇事由に該当する行為は存在しないが、仮に六月の協議の内容が原告主張のとおりのものではなく、その結果、原告の各行為が形式的に就業規則に違反するものと評価されることがあるとしても、原告が本件クラブの日常業務に関与するに至った経緯、原告の業務執行の実情、本件クラブ運営のための資金の必要性、原告の関与により本件クラブの崩壊が回避できたこと等の事情に照らすと、懲戒解雇という処分に相当する重大な違反とまでは認められず、本件懲戒解雇は懲戒権の濫用として無効なものである。

2  原告の被告に対する不法行為の成否

(一) 被告

(1) 積極損害について

<1> 原告は、平成五年九月二九日、郵便貯金口座の届出印を被告に無断で変更し、同日、右口座から六五万円を引き出して費消し、被告に同額の損害を与えた。

<2> 原告は、平成五年一〇月一日、ピノキオ教室口座の届出印を被告に無断で変更し、同日以降合計六二万二四二八円を引き出して費消し、被告に同額の損害を与えた。

<3> 原告は、平成五年八月ころから一二月一〇日ころまでの間、被告に無断で銀行口座から順次合計金八六四万二三三九円を引き出して費消した。このうち、四分の三が仮に被告のために使われたとすると、被告の被った損害は二一六万〇五八五円となる。

<4> 右<1>ないし<3>の損害を合計すると、三四三万二九九三円となるが、被告は、その一部である三四三万円を不法行為に基づく損害賠償金として原告に対し請求する。

(2) 慰謝料について

原告は、平成五年六月以降、被告の郵便貯金口座、ピノキオ教室口座の各届出印の無断変更、被告名義の契約書の偽造、被告の資金の不正支出、人事権の不正行使、重要書類の無断持ち出し、さらには、本件クラブの会員の引き抜き等により、被告に精神的苦痛を与えた。

この精神的苦痛に対する慰謝料は一〇〇〇万円を下らないが、被告はその一部として七〇〇万円を原告に対し請求する。

(二) 原告

(1) 積極損害について

銀行口座、郵便貯金口座及びピノキオ教室口座の各口座から引き出した金員は、本件クラブの運転資金として使用したものである。

(2) 慰謝料について

被告の主張にかかる郵便貯金口座及びピノキオ教室口座の届出印の変更、被告名義の契約の締結、アルバイト従業員の正社員への昇格、従業員の賃金の増額は、被告との合意に基づくものである。また、原告は、アルバイト従業員を新規に採用したことはない。

原告は、本件クラブの経理書類及び会員名簿等を持ち出したことはあるが、そのうち総勘定元帳等の写しを被告に交付している。

原告は、本件クラブの会員を引き抜いたことはないし、被告の会員の減少は、被告の指導体制、指導内容について各会員らが判断した結果である。

第三証拠

本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録の記載を引用する。

第四当裁判所の判断

一  本件懲戒解雇の有効性について

1  使用者が労働者に対して行う懲戒は、労働者の企業秩序違反行為を理由として、一種の秩序罰を課するものであるから、具体的な懲戒の適否は、その理由とされた非違行為との関係において判断されるべきものであり、懲戒当時に使用者が認識していなかった非違行為は、特段の事情のない限り、当該懲戒の理由とされたものでないことが、明らかであるから、その存在をもって当該懲戒の有効性を根拠付けることはできないものというべきである(最高裁判所平成八年九月二六日第一小法廷判決判例タイムズ九二二号二〇一頁参照)。

しかるに、被告は種々の事由を懲戒解雇事由として主張するが、(証拠略)によると、本件懲戒解雇当時、被告が懲戒解雇事由として考えていたのは、原告が邦香名義の郵便貯金口座の届出印を無断で変更し、同口座からの六五万円の引き出した事実であることが認められ、それ以外の事実は認識していなかったものと推認され、特段の事由のない限り、本件懲戒解雇の有効性を根拠付けることができないものというべきものである。

2  そこで、原告が郵便貯金口座の届出印を無断で変更し、同口座から金員を引き出して費消した事実が存するかどうか、そしてその事実が存する場合、懲戒解雇事由に該当するかどうかについて検討するに、当事者間に争いのない事実及び証拠を総合すると、次の各事実を認めることができる。

(一) 被告は、昭和五〇年に福岡大学体育学部を卒業し、高等学校及び中学校の体育の教員資格を有する者であり、邦香は、昭和四九年に東京女子体育短期大学を卒業し、中学校の体育の教員資格を有する者であるが、被告と邦香は、昭和五二年に結婚した。

被告は、昭和五三年ころ、邦香と共に、中央幼児体育教室の名称を使用して、福岡市内の幼稚園や保育園との間で体育講師を派遣する旨の契約を締結し、幼稚園等の体育の指導を幼稚園等の従業員に代わって行うようになり、昭和五七年ころからは、中央スポーツクラブの名称を使用して、いわゆる放課後に幼児や小学生の会員に対してサツカーを中心とする体育指導も行うようになった。(<証拠・人証略>)。

(二) 原告は邦香の弟であって、昭和五七年秋ころから、本件クラブでアルバイト従業員として勤務していたものの、長続きせず、昭和五八年春ころに本件クラブでの勤務を辞め、その後職を転々とし、昭和六三年ころから再び本件クラブの正規従業員として雇用され、以来、被告の指示のもとにサッカー教室等の開催場所である幼稚園等と本件クラブとの調整、会員の父兄との交渉やグラウンドの予約等の業務に従事していた(争いのない事実、<証拠・人証略>)。

(三) 鉄男及びサヤ子は邦香の両親であるが、鉄男は、税務署勤務、民間企業勤務を経て、昭和五一年に福岡市内の私立学校法人の事務職に就職した。また、サヤ子は、かつて小学校教諭として勤務した経験を有する者であるが、昭和五一年ころ、幼稚園教諭として鉄男と同じ学校法人に就職した。

平成四年三月、鉄男とサヤ子は揃って右学校法人を定年で退職し、同年四月から、鉄男は、税務署勤務の経験を生かして、それまで邦香が担当していた本件クラブの経理を手伝うようになり、サヤ子は、教員の経験を生かすべく、邦香と相談の上、本件クラブの事業の一環として、幼児のための塾すなわちピノキオ教室を開設し、そこで指導することとなり、ピノキオ教室は平成五年四月に開校した。(<証拠・人証略>)

(四) ピノキオ教室の生徒数は約一〇名程度と小規模であったため、同教室に関する経理については、最終的には本件クラブの経理に合算することになっていた。ただ、ピノキオ教室の生徒の月謝は、生徒に付き添ってくる父兄が持参することが多かったため、邦香が新たに開設したピノキオ教室口座の預金通帳をサヤ子にあらかじめ渡しておき、サヤ子は生徒の父兄から受け取った月謝を自ら右口座に入金することになっていたが、同口座の届出印は邦香が所持し、管理していた。

ピノキオ教室を除く本件クラブの収入は、幼稚園等に体育の指導講師を派遣することに対して幼稚園等から支払われる指導料と、幼児や小学生の個々の会員から支払われる月謝に分けられるが、幼稚園等からの指導料は被告か邦香が現金で受け取って領収証を発行し、会員からの月謝は、福岡銀行に口座を有する会員からは銀行口座に、そうでない会員からは郵便貯金口座にそれぞれ振り込まれることになっていた。

なお、銀行口座へ振り込まれる月謝の割合は、スポーツクラブのすべての月謝の約八割に相当する。(<証拠・人証略>)

(五) 平成五年六月、原告を除く当時の全従業員六名(正規従業員三名、アルバイト従業員三名)が、被告の指示等に反発し、被告に対して一斉に辞職願を提出するという事態が発生した。そこで、原告、被告、邦香、サヤ子及び鉄男が善後策を協議し、その結果、本件クラブの日常業務全般は、被告に代わって原告が担当することとなり、被告は従業員が出勤する時間帯には事務所に来なくなった。そして、本件クラブの日常業務の遂行に必要な会計管理は、原告と鉄男が共同して担当することになった。(<証拠・人証略>)

(六) 六月の協議以降、原告から被告及び邦香に対して本件クラブの全預金口座の出納管理を原告に任せるよう要求があったが、被告は原告を信用し難かったため、断った。

しかし、本件クラブの運転資金が必要となるため、実際に経理、出納管理を担当していた邦香は、鉄男ならある程度管理を委ねてもよいと考え、鉄男が利用しやすいように、銀行口座に限り、届出印の変更の手続きを済ませたうえで、平成五年七月ころ、出納明細について一つ一つ被告に報告することを前提に、銀行口座の通帳と新届出印とを鉄男に渡した。

鉄男は、同月ころまで、本件クラブの経理に関して支払の必要がある都度、邦香の決裁を受けていたが、同年八月ころ、鉄男は本件クラブの従業員と折り合いが悪くなったため、原告の要請もあって本件クラブの事務所に顔を出さなくなり、その結果、銀行口座の通帳とその新届出印は原告が所持することとなった。(<証拠・人証略>)

(七) 銀行口座の資金では運転資金に不足を来したので、原告は、平成五年九月二九日、被告及び邦香の許可を得ずに、銀行口座の新届出印として使用している印鑑を郵便貯金口座の新届出印とする届出印の変更手続をし、同日、新届出印を使用して六五万円を引き出した。

右六五万円と後記(八)記載の同年一〇月一日に引き出した三一万円と手持現金を合わせた一〇三万八七一二円を同年九月分の賃金として各従業員の口座に振り込んだ。

同年一〇月二日、郵便貯金口座の届出印の変更を知った邦香は、原告に対し苦情をいうとともに、同月四日に郵便局で調査してもらい、同月七日には原告の行った届出印の変更を取り消し、新たに真正な届出印を届けた。

同年一二月七日ころ、被告は九州郵政監察局に対し、郵便貯金口座の届出印の無断変更及び変更後の印鑑を使用して右口座から金員を引き出したことについて、私印偽造、同行使、詐欺の容疑で原告を告訴した。(<証拠・人証略>)

(八) 平成五年九月二九日、原告はピノキオ教室口座の通帳を、被告及び邦香に無断でサヤ子から預かり、自分が用意した印鑑を右口座の新しい届出印に変更する届出を福岡銀行に対して行い、同年一〇月一日、右届出が受理され、同日、新届出印を使用して三一万円を引き出した。そして、原告はその後さらに、同口座から同月二五日に一二万円、同年一一月五日に二万〇八九〇円、同月一六日に六万円、同年一二月七日に一一万一五三八円を引き出した。(<証拠・人証略>)。

(九) 被告は、平成五年一二月六日付書面を同月七日に福岡東郵便局に差し出し、原告を同月九日付をもって懲戒解雇する旨の意思表示をし、その書面は同月八日原告に到達した(争いのない事実)。

3  懲戒解雇事由の存否について判断する。

(一) 右2で認定したところによれば、原告は、六月の協議において、従来から任されていた営業業務の他に、被告に代わって本件クラブの日常業務全般及びその遂行に必要な会計管理の権限を与えられていたことは認められるが、郵便貯金口座の届出印の変更の権限まで与えられていたと認めることはできない。また、邦香が右届出印の変更の事実に気がつくや、直ちに原告に苦情を述べるとともに、対策を講じていることからすると、右届出印の変更等について邦香が承諾をしていたと認めることもできない。したがって、原告は、被告に無断で郵便貯金口座の届出印を変更し、同口座から六五万円を引き出したものといわなければならない。

しかし、右六五万円は、右2(七)で認定したとおり、平成五年一〇月一日にピノキオ教室口座から引き出した三一万円と本件クラブの手持現金を合わせた上、同月五日に同年九月分の賃金として各従業員の口座に振込んだことが認められ、費消したものと認めることはできない。

(二) 原告が、被告の承諾なく無権限で郵便貯金口座の届出印の変更をしたことは、従業員として許されるものではないし、右口座から引き出された六五万円の使途は、右認定のとおり、本件クラブの従業員の平成五年九月分の賃金であるから、その限度では本件クラブにとって必要な支出ではあるが、経営者の意思に反して支出することが違法であることには変わりがない。

そうすると、原告は、権限が与えられていないにもかかわらず、被告に無断で郵便貯金口座の届出印を変更し、その変更後の印鑑を使用して右口座から六五万円を引き出したものであり、原告の右行為は、就業規則四五条(7)に該当するものというべきである。

4  次に懲戒権の濫用の有無について判断する。

原告は、六月の協議以降、本件クラブの日常業務全般及びその遂行に必要な会計管理の権限を与えられたものであるが、従業員である以上、経営者である被告の明示、黙示の意思に反することが許されないことは当然である。けだし、経営者は、対外的、対内的に責任を負う者であり、結果はどうあれ、経営者の意思に反する従業員の行為を容認したのでは、経営の責任を果たすことはできないからである。原告の行為は、経営者である被告の権利を侵害したものであるといわなければならない。以上の観点からすれば、郵便貯金口座の届出印を無断で変更し、同口座から無断で六五万円を引き出した原告の責任は重大であり、六五万円を自己のために費消したという事実は認められないが、本件懲戒解雇が懲戒権を濫用したものということはできない。

5  なお、原告は、被告が平成五年一一月分以降の賃金を支払っていないと主張し、(証拠略)によると、原告名義の通帳には同年一一月分(同年一二月三日に支払期日が到来する。)以降の賃金が振り込まれた旨の記帳がないことが認められる。しかしながら、(証拠略)(平成五年分源泉徴収簿兼賃金台帳)には同年一一月分の賃金が支払われた旨の記載があり、その受領印欄には原告の受領印が押捺されていること、(証拠略)によると同年一〇月分の賃金が振り込まれた旨の記帳がないこと、(証拠略)によると、本件クラブでは賃金を現金で支給することもあったがことが認められ、これに平成五年一二月三日当時、原告が本件クラブの会計管理をしていたことを考え合わせると、原告は一一月分の賃金を受領したものと推認するのが相当である。もっとも、被告が原告に対し、同年一二月分(ただし、同年一一月二一日から一二月九日まで)の賃金を支払ったことを認めるに足りる証拠はない。

そして、同年一二月分の賃金については日割計算をするのが相当と解されるところ、一九万九二八一円を三〇(平成五年一一月二一日から一二月二〇日までは三〇日)で除して、一九(平成五年一一月二一日から一二月九日までは一九日)を乗ずると、一二万六二一一円(円未満切捨)となるので、右金額を原告の一二月分の賃金と認めるのが相当である。

二  不法行為の成否について

1  積極損害について

前記一2で認定したように、原告は、平成五年九月二九日に郵便貯金口座から引き出した六五万円及び同年一〇月一日にピノキオ教室口座から引き出した三一万円を、本件クラブ従業員の同年九月分の賃金のために支出したものと認められ、この支出は被告の承諾を得ずに行ったという点で手続的には違法であるが、そのことにより被告の本件クラブ従業員に対する賃金の支払債務が消滅したのであるから、被告に損害は発生していないというべきである。

そして、(証拠略)によると、原告が本件クラブの銀行口座及びピノキオ教室口座から右以外にも資金を引き出したことが認められるが、原告は被告から本件クラブの日常業務全般及びその遂行に必要な会計管理を任されていたのであるから、原告自身のために費消したという明確な証拠がない限り、原告による支出は日常業務のための相当な支出であると推認すべきである。手続的に被告の意思に反する支出があったとしても、そのことだけでは被告に実害が発生したと判断すべきではない。

2  慰謝料について

(一) 証拠によると、次の事実を認めることができる。

(1) 原告は、平成五年七月ころ、本件クラブのアルバイト従業員であった川島圭一朗(以下「川島」という。)から、大学を中退したので、被告の正規従業員になりたい旨の申出を受け、被告にその旨相談しにいったところ、被告は明確には拒絶をしなかった。被告は、明確に拒絶しない場合は承諾していることが通常だったので、平成五年八月以降正規従業員として処遇した。

なお、原告は被告に無断で同年一〇月分から川島の基本給を一万一〇〇〇円増額した。(<証拠略>)

(2) 原告は、本件クラブの正規従業員であった井口大(以下「井口」という。)が、被告は雇用契約に際し、短大卒業と同程度の処遇をすると約束したのに、実際には、短大卒業の学歴の者より賃金が低いと申し入れられたため、被告に承諾を得ることなく平成五年一〇月分から同人の基本給を六〇〇〇円増額した。(<証拠略>)

(3) 原告は、平成五年一二月ころ、被告に承諾を得ることなくアルバイト従業員二名を雇用した(<証拠・人証略>)。

(4) 原告は、平成五年九月から一〇月ころまでの間に、被告の承諾を得ることなく、本件クラブの正規従業員を飲食店に連れて行き、高額の飲食費を本件クラブの資金から支出し、本件クラブの資金でコンピューターソフトなどの備品を購入した(<証拠略>)。

(5) 原告は、平成五年七月から一二月にかけて、被告に承諾を得ることなく、第三者との間で被告名義の契約を締結した(<証拠・人証略>)。

(6) 平成五年一二月七日ころ、原告は、被告が本件クラブの事務所に保管していた経理関係書類や会員名簿、会員連絡簿を持ち出した。そこで被告は原告に対し、以後何度となくこれらを返還するよう申し出たものの、原告は応じなかった。(<証拠・人証略>)

(7) 原告は、平成六年四月、本件クラブの従業員らとともに、ACファルベンという名称で子供向けにサッカーを指導するスポーツクラブを設立したが、その際、本件クラブの会員に対し、新クラブ設立に関するあいさつ状を送付し、本件クラブの会員を引き抜こうとした(原告本人)。

(二) 右各認定事実によると、郵便貯金口座及びピノキオ口座の各届出印の変更、井口、川島に対する平成五年一〇月分以降の賃金の増額、二名のアルバイト従業員の雇用、第三者との間の本件クラブの名称使用許可等の契約の締結、本件クラブの書類の持ち出し等は、いずれも被告の明示の意思に反したか個別の承諾を得ずに行ったものであることが認められるが、川島の正規従業員への昇格は、被告の黙示の承諾があったというべきであり、本件クラブの会員の引き抜きは、違法と判断できるまでの具体的事実についての証拠はなく、いずれも違法であるとは判断できない。

当裁判所が違法と認定したものは、日常業務の範囲外となるものであり、従業員としては、経営者の同意を得て行うべきものであるから、原告は従業員としての原則をはずれ、本件クラブの経営者としての被告の権利を侵害したものというべきである。このことにより、被告が精神的苦痛を被ったことは疑いがなく、これを慰謝するために、原告に対し、金五〇万円の支払を命ずるのが相当であると判断する。

第五結論

以上の次第であるから、原告の本訴請求は、平成五年一二月分の未払賃金一二万六二一一円及びこれに対する支払日の翌日である平成六年一月六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却し、被告の反訴請求は、不法行為に基づく損害賠償金五〇万円及びこれに対する不法行為の日の後である平成六年四月一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を適用して(なお、被告は仮執行の免脱の宣言を申し立てているが、必要がないものと認めて付さない。)、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 草野芳郎 裁判官 和田康則 裁判官 松本有紀子)

(別紙) 就業規則

(懲戒の種類、方法)

四二条 懲戒は、次の五種類に区分して行うものとする。

(1)ないし(4) 省略

(5) 懲戒解雇 解雇の予告をしないで即時解雇する。

(諭旨退職及び懲戒解雇)

四五条 次の各号のいずれかに該当する行為があった教職員に対しては、諭旨退職若しくは懲戒解雇に処する。ただし、情状によっては、前条(戒告、減給、停職)により処分することがある。

(1) 教室の名誉、信用を傷つけるような行為をしたとき

(2) 故意に教室の機密事項又は教室に不利益な事項を他に洩らしたとき

(3) 教室の金品を詐取、流用若しくは無断持出し、その他これに類する行為により、教室に損害を与えたとき

(4) 故意又は重大な過失によって、職場の施設、備品、その他金品に損害を与えたとき

(5) 重要な経歴を偽り、又は不正の方法によって任用されたとき

(6) 正当の理由なく転勤又は職場、職種の変更等の業務命令を拒んだとき

(7) 越権専断の行為によって職場の秩序を乱し、又は業務に支障を与え、若しくは、損害を与えたとき

(8) 正当の理由なく無断欠勤七日以上におよんだとき

(9) 刑事上有責な行為をなし、教職員の体面を汚したとき

(10) その他、前各号に準ずる不都合な行為があったとき

以上

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